ハレホレ四賀【松本・四賀地区ご案内ガイド】

むらの日々

石仏の宝庫 四賀 磨崖仏はご存じ?

未分類

写真・文/松本商工会議所専務理事 赤廣三郎様

四賀は、全面積の86%近くが山林原野で嶺間と呼ばれるように、山々に囲まれた会田盆地の4カ村が合併した地域ですが、古くは江戸街道・善光寺街道などの宿場として栄えた所。会田宿、刈谷原宿、保福寺宿の三宿駅が設けられ、番所が保福寺口、横川口と二カ所ある等、他には例を見ないほど重要な地でした。天領でもあったため、幸いにも明治の廃仏毀釈の憂き目にも遭わず、古い寺院や仏像も壊される事なく残されました。中でも、知る人ぞ知る「石仏の宝庫」です。探索には最高の季節、どうぞお出かけください。


(藤池百体観音)

 

◆「藤池の小岩岳観音堂」の周りには、安政4年(1857)近隣の人々により奉納された西国・坂東・秩父の百霊場観音が現存しています。簡単に巡礼に行けなかった時代の人々の、信仰の篤さがうかがえます。

 

(廣田寺の百体観音)

 

◆「廣田寺」は、天正9年(1581)まであった知見寺が前身。鎌倉時代に当地を支配しに小県から入った会田氏(海野会田氏のち岩下会田氏)の菩提寺で、天正10年以降に「廣田寺」となります。真田氏は名跡海野氏30代を継承しており、会田氏とは同族故に寺紋は六文銭です。

総門前右手の大黒天を見て総門をくぐると、参道両脇に百体観音が並んでいます。嘉永2年(1849)から明治28年(1895)にかけて亡くなった幼児を供養した百体観音です。「善光寺道名所図会」に岩井堂観音と共に掲載されている寺で、往時と伽藍はほとんど同じです。

(立峠岩井堂観音図)

 

◆「岩井堂観音山」は、立峠への登り口にあります。行基菩薩や弘法大師巡歴の伝説がある霊場で、西国・坂東・秩父の百霊場の観音が勧請されています。昔の案内書に「この霊山は奇石怪岩累々として巌嶂屏風の如く、山上に至れば一面岩石畳を敷くが如く絶景殊に勝れ眺望比類なし」とあり、岩山の各所に石仏が安置されています。

 

(岩井堂観音山の磨崖地蔵尊)

 

ここには県内でも珍しい11体の『磨崖仏』があり、なかでも地蔵は高さ210cm、大黒天は高さ160cmと大きく、この近在では見られない貴重なものです。信濃二十番札所。


地区内には、元禄以前(1687年以前)の紀年銘が分かるもの38体を含め、約3千体の石造物が残されています。庚申塔等は松本平とは形式が異なり、善光寺平などで見かける形式のものが多く、北信地方との接点となる石仏地帯と考えられています。また、甲子信仰としての大黒天が多いのも特徴です。

江戸時代の寛永19年(1642)、延宝2年(1674)、天明3年(1783)、天保7年(1836)、慶応3年(1867)は大凶作に見舞われ、特に天明3年には多数の人々が亡くなっていて、こうした年には石仏の建立が目立って多くなります。慈悲と加護を願いつつ、供養として建立されてきた背景を忘れたくないですね。


この文章は松本商工会議所の「会報 まつもと」10月号の松本よもやま話から転載させて頂きました。

こんな石仏やお寺、ぜひ四賀きまシャルソンで回ってみて下さいね!

 

この記事を書いた人

塩田朱美
塩田朱美
四賀に移住して築130年の古民家で暮らしています。
たくさんのペットたちのお世話をしながら自然農法で野菜を作り、四賀の暮らしを満喫中です。

<四賀きま移住相談室 室長 / 信州暮らしパートナー>

<<  | ブログトップへ |  >>